電話番号

園長日誌

ご存知の方もいらっしゃると思いますが、私は浄土真宗本願寺派の僧侶であり、園長職にあるこの園は、私が住職を務める寺の敷地内にあります。
先日、僧侶研修会に参加した時のことです。内容は「根欠と障害者差別」についてでした。「根欠」とは聞きなれない言葉ですが、主に身体的障害を指します。研修の中で2つのキーワードが出てきました。それは障害の原因を「個人モデル」と「社会モデル」という視点で考えるということです。

「個人モデル」とは自分中心にした視点で、健常者である自分と比較して現在社会に適応できない身体的精神的特徴を持つ人を一方的に「障害者」とみなすことです。
例えば、「障害は個人の努力によって克服するべきもの」とか、「障害者はかわいそうだから、健常者と同じことを達成したことで感動」といった無意識に見下している様子です。

一方「社会モデル」とは、社会の心理的制度的な様々な障壁において排除される人たちを「障害者」とみることです。
例えば、私は高校時代から眼鏡をかけていますが、現代社会においては視力が低いからといって差別する人はいません。しかしながら眼鏡がない時代であれば、私は身体障害者となるのです。足の悪い人は車椅子を利用しますが、どこまでも車椅子で行くことができれば、障害ではなくなります。

さて、今度は園長として、現在北イリノイ大学で教鞭をとる清水秀規准教授から「日本文化を軸にした子育てと教育の柔軟性、多様性と創造性について」という講演を聞く機会がありました。

教育要領に「主体的・対話的で深い学び」とあります。主体性を考えたとき、それは「こだわり」と受け止めてはどうかという話がありました。そしてそこには「智慧」があり、私のためだけでない、相手と共有することだと聞きました。

子どもたちの成長を見るとき、ごく自然に別の子どもと比較します。例えば3歳児であればこれぐらいはできる、という考え方も比較によるものです。比較による評価をすべて否定するつもりはありません。定型発達という言葉も比較によるものです。

今回、全く別の研修から改めて考えさせられたことは、私たちが常識的に見ている見立てが必ずしも正しいとは限らないということです。様々な物差しを持ってきて図る多様性が必要です。
そして今の日本の教育で取り組んでいる「主体的・対話的で深い学び」が花開くとき、誰もが住みよい社会が誕生することでしょう。

ページの先頭へ